作品のこだわりの部分などを説明する前田さん
「原爆が落とされる前は、どんな遊びをしていたのか考えていて、自分たちと同じと気づいた。それが失われたということです」。被爆二世のアニメーション作家は、8月5日にこだわった理由をこう説明します。
作品は、げたを履いた男の子たちが遊ぶシーンから始まります。全十九分のうち約八割は、被爆前の様子です。広島市西区の三篠地区で、学校の見取り図や個別地図、写真を探し集め、お年寄りの話を聞いて回りました。忠実に再現しようと、細かな部分を丁寧に描いたため2002年の完成まで、10年かかりました。
「作品を見たことをきっかけに、原爆資料館などに行ってみようと思う人が増えてくれればうれしい」
約五十年前に初めて8ミリカメラを購入して以来、家族や被爆者を撮り続けています。「私のなかのヒロシマ」や「妻の貌(かお)」は、自らと同じく入市被爆者である妻のキヨ子さん(81)を被写体に原爆を見つめた作品です。
1968年、健康だったキヨ子さんに甲状腺がんが見つかりました。不安を抱えながら闘病や子育てをする様子をカメラで追いました。「ヒロシマの重みを、初めて感じた。妻の姿は自分の姿でもあるんです」。戦争に対する怒りや、やりきれない気持ちを映画で表現するようになりました。
「若い人にも見てもらいたい。上映してくれる学校があれば喜んで行きます」。これまで制作した、原爆をテーマにした作品は12本。国内の数々のコンクールや、海外でも評価されています。
原爆の絵を描く被爆者の男性を追った次回作が、秋までに完成する予定です。(高1・西田成)
独自の視点でヒロシマを切り取っています。支部長の関邦久さん(64)が20年間撮っているのは、広島市南区の鶴見橋東詰めにある被爆ヤナギです。
1987年の痛々しく支柱で支えられた姿から、保存措置や橋の架け替えに伴う移植を経て、葉を生き生きと茂らせる現在までをたどります。「継承は事実をコツコツ積み重ねていくことが大切」と言います。
田森孝仁さん(57)が着目したのは、同市南区にあった旧国鉄宇品線宇品駅のプラットホーム跡や、軍用に使われた桟橋、通称陸軍桟橋の跡です。戦争中は多くの軍人がここから戦地に向かいました。「加害の側面があったことも見なければ『ヒロシマ』の歴史の全体像は分からない」という思いを込めています。
「広島から発信する平和への願い」と題して昨年、コンピューターグラフィックスの授業で生徒が映像作品作りに取り組みました。
まず広島の町や身の回りの風景を観察・取材して、素材を集めました。そこからイメージを広げて、アニメーションや手書きのイラスト、写真などを使った6つの作品が出来上がりました。
2005年制作のドラマ「君にニーハオ」は、高校生の目線で日中関係を取り上げました。中国人のクラスメートと仲良くしていくために、南京事件など日本の高校生があまり知らない過去の出来事も学ばなくては、と訴えています。
一年生の時に出演し、現在は部長を務める三年の中林ゆきさん(17)=同市東区=は「広島の高校生として、歴史を学ぶことの大切さや、平和について考えさせられました」と振り返ります。
現在の部員は17人。ドキュメンタリーや、部員出演のドラマなど、年間6-7本の映像・音声作品を作っています。
「ヒロシマ8.6の記録」と題し、2000年から平和記念式典や祈りをささげる人たちの姿をカメラに収めています。原爆ドームや灯ろう流し、子どもたち…。部員たちはそれぞれの視点で歩き回って、「8.6」を切り取ります。
顧問の田村繁美教諭は「早朝や夜に撮影する年もあります。いい写真を撮るだけでなく、平和や社会問題に関心を持つことを大事にしています」と話します。