四 山本正さんの場合
ピアノを弾こうとしてふたを開けた時、けん盤が歯に変わっていたとしたら、あなたは、どうする?
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世界的に有名なピアニストの山本正さんは、どこに行ってもコンサートの前の何時間かはだれにも会わず、演奏するピアノで練習することにしている。まわりの人が「ピアノのくせを調べておいでなのですか?」とたずねると、正さんは、
「いえ。こうやって、ピアノと友達になっているんですよ。どんな難しい曲でも、親友と一緒だと思えばがんばれるんです」
と、答える。だけど、この練習がいつもできるわけではない。ある時、飛行機が遅れた。正さんが会場についたのは、演奏会が始まる二十分前だった。タキシードに着替えたら、もう何をする時間もなかった。
そのピアノにはステージで初めて会った。会場を埋めた人たちの拍手が鳴り止み、ピアノの前のいすに座って、静かにふたを開けた。すると……
そこには、ふつうのけん盤はなかった。並んでいたのは歯だった。黒いけん盤は、虫歯だった。
「痛いよう」
正さんの顔を見ると、黒い歯は声を出さないで泣いた。白い歯は心配顔。二時間前だったら、別のピアノにかえてもらえたのに。もう、それは、できない。
「今日弾く曲は、モーツアルトの幻想曲とショパンの歌曲。そんなに激しい曲ではないよ。どうにかがんばれない?」
「問題は、最後の曲です。ぼく悲鳴をあげちゃいますよ」
「最後? ああ『剣の舞い』か。これは痛い。よし。『トロメライ』
にかえよう。お客さんにはその時、あいさつするさ」
演奏会に来た人たちは、耳のそばで聴くひそひそ話のような静かな調べに、魂をうばわれた。最後の曲が入れかわっても、文句を言う人はなかった。
演奏を終えた正さん、大きな拍手の中で、虫食い歯ピアノに向かって丁寧におじぎをした。
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