2001.3.13
育児通して初めて分かる
保育園でスケーターをとられて泣いていた長男が、迎えに来た私
の姿を見ると、何もなかったような顔になった。その晩にいくら問
い詰めても「話さない」と頑張る。大人がたじろぐような自尊心を
見せた子どもたち。
あるいはちょっとした一言に傷ついたり、喜んだり。感情を抑え
て明るく振る舞ったり。
子どもたちとの一シーン一シーンを振り返ると、自分が子どもだ
ったころもそうだったのか、と欠落した記憶を再現されているよう
な気がする。
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イラスト・丸岡 輝之 | |
同時に、私の父親もまた、私を育てながらいろいろなことを考え
たのだろうか、と思う。
その父は、私が離婚した時「子どもは手放せ」と言って聞かなか
った。子どもは母親がみた方がよい、私たちは老いて面倒が見られ
ない…などさまざまに理由をあげて。
「自分で育てる。どうして孫にそんなに冷たいのか」と言い返し
ても、声を震わせて「手放せ、手放せ」。平行線の末に車で帰ろう
とする私をなおも追ってきた父は、窓の縁に手をかけ、涙をぽろぽ
ろこぼしながら「頼むけえ、手放してくれ」とまで言った。
「なぜそこまで」と問うと「おまえが再婚できんじゃろう」と一
言。予想もしない答えに一瞬涙がこぼれそうになった。
三十八年目にして初めて見た泣きじゃくる父。親はこんなにも子
のことを心配するのかと知った。
「自分を思ってくれるのはうれしい。でも同じように私も自分の
子がかわいい。手放さない」と私。「勝手にせえ。その代わり子ど
ものことで絶対頼ってくるな」と言い捨て背を向けた父。
私は帰る場所がなくなったと覚悟した。子どもが病気になった
り、自分が寝込む姿が脳裏をかすめ不安になったが、これからは全
部自分が引き受けるのだと腹を決めた。
結果として、父への返事は、私の自立宣言だったのだ。
私は親に頼らなかった。子どもが小学校の高学年になると、さす
がに父も「泊まりに来させや」と言うようになり、次第に修復はし
たが…。その父が昨年ポツリと言った。「お前、ようやったよの
う」。やっと父は私のしてきたことを認めてくれたのかと思った。
(一人親家庭サポーター=広島市)