2000.12.5
つらさいやす幸せな記憶
母が他界し、気丈な父が弱気になっている。長い夜の寂しさに耐えかねてか、故郷の山の町に帰りたいと言い出した。人は、どうしようもない寂しさやつらさに出会うと、故郷を思うのだろうか。私が離婚した時もそうだった。
九年前の夏、仕事から帰ると妻はいなかった。ドアを開けたら、子どもたちが待ちかねたようにして告げた。
「僕たちがおふろに入っている時にね、お母さんは泣きながらどこかへ行ったよ。『元気でね、いつか絶対迎えに来るからね』と言って」
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イラスト・丸岡 輝之 | |
妻はその日に出て行くことになっていた。承知はしていたが、なぜか独り残された寂しさを感じた。
無性に蛍を見たくなった。どうしても今見なければいけなかった。子どもを車に乗せ、薄暗くなった道を走った。
五歳と三歳では分からないとは思いつつも「きょうからは、お父さんと三人です。お母さんは帰ってきません。人間には、独りで生きていく強さがあります。三人で頑張りましょう」と言い聞かせ、心の中ではぼろぼろ涙をこぼしていた。
山に向かった。川筋も走った。一匹もいない。考えてみれば、シーズンは五月から六月。あきらめて帰路についた。
しかし途中、あるいはと入った農道で二匹の蛍が舞っていた。子どもたちが車から飛び出し、追いかけるのを見ながら、私は声をあげて泣いた。
あの日蛍を見たかったのは、心の故郷に帰りたかったのだ。そう思い当たったのは、五年くらい後である。子どものころ、家は田や山に囲まれ、夜はたくさんの蛍が出てきた。遅い夕食時、ちゃぶ台に並ぶものは質素だったが、網戸の外には蛍の乱舞が見えた。
兄と寝る部屋の電気の傘や障子にとまっていることもあった。「明日の朝まで生きとるだろうか」とか「窓を開けといたら逃げるだろうか」などと話しながら、いつまでも眺めていた記憶がある。
私にとって、蛍は、人生の中で最も幸せな時の風景の象徴だった。妻が去った時、私は幸せな記憶に逃げようと思ったのだ。心の故郷の蛍を見なければいけなかったのだろう。
子どもとの九年を振り返って、帰っていける心の故郷を作ってやれたかと不安になる。学校から帰ったら、慌ただしく食事とふろを済ませて寝させる繰り返しだったのではないか。
ただ、夕食だけはゆっくり三人で話しながらしたつもりだ。子どもたちの大切な思い出となってくれればいいが。
(一人親家庭サポーター=広島市)