2000.7.11
不便さ知って便利知る
わが家ではシャンプーやリンスを使わない。せっけんがあれば十分だと思う。ところが長男は、中二の時に野外活動の宿泊に参加して以来、シャンプーを買えと主張し始めた。「普通の家はみんな使っている。使ってないのはうちだけだ」と。でも私は「髪には普通のせっけんが良い」と譲らない(もっとも修学旅行には、友達の目を気にして持って行ったようだが)。
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イラスト・丸岡 輝之 | |
洗濯機にしても、洗濯担当の長男は「普通の家では…」と全自動への買い替えを要求している。
今使っている二槽式よりは全自動がわが家には適している、と私も本心では思う。しかし今のままでも、私が子どもころの手回しハンドルでの脱水よりはるかに楽だ。これ以上便利なものにしなくてもいいと思っている。
二槽式では、洗濯、すすぎの度に脱水をする。冬はその都度冷たい水に手を入れなければならない。脱水機は、洗濯物が偏ると回らないので、また入れ直す。こうした手間を経験して初めて、全自動のありがたさが分かる。
この経験なしに便利なものに慣れると、それを当然のように考えるのではないかと不安になる。便利さは、不便さを知る者だけが得られる感覚だろう。
子どもたちが小学生の時、電気炊飯器が故障し、なべで米を炊いた。おいしいご飯ができた。子どももまだ「普通の家では…」と抵抗しなかったので、買い替えないまま三年くらい続けた。
炊き上がる直前の火加減が難しいのだが、三人の中で長男が一番だった。お焦げの薄い色がつくかつかないかの微妙なころ合いで火を止めるのだ。きっと、今炊飯器が故障しても、慌てずなべを使うだろう。これが、親が伝える「生きる力」と思う。
子どもたちは、「この家にはテレビもゲームもオーディオもない。子供部屋もないし何もない」とこぼすことがある。その度に「それは全部、お前が大人になれば買うことができる」と言っている。
同時に「お母さんは手に入れられない。手に入れられないことも受け入れられる人になってほしい」と話している。
人生が思うようにならないことは、離婚で学んだことだ。子どもたちには、わが家にないものではなく、わが家にしかないものを数えるようになってほしい。
(一人親家庭サポーター=広島市)