2000.6.27
傷つくのは「ふびん」視
「おじちゃん、どうしてお母さんが迎えに来ないの」
保育園に迎えに行っていたころ、必ず子どもたちから聞かれた。いつも父親が送り迎えしていると、何か事情があるということになる。父子家庭は隠そうとしてもだめなのである。
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イラスト・丸岡 輝之 | |
中学生になってからは、教材などのセールス電話がよくかかってきた。私が出ても「お母さんは」と聞かれる。「どうしても母親でないとだめですか」と聞き返すと「ええ」と答える。「父子家庭です」と言うと、言葉に詰まった様子である。
離婚後まもない時、長女を美容院に連れて行った。前の妻のいきつけの店だった。「お父さんといっしょでいいね。お母さんは」と美容師さん。五歳の息子は大きな声で「出て行ったんで」。三歳の長女も一緒に「出て行ったんよ」。
子どもの口をふさぎたい思いにかられた。「お買い物?」「僕らに『さようなら』言うて出て行ったんで」。ああ、ついに言ってしまった。
笑顔で聞いていた客の顔が凍りついた。これが最初だったか、それ以後も子どもを連れて行く先々で同じ質問を受け、いちいち説明するはめになった。
子どもたちに母親のことを内証にしろと言い含めるのは簡単だった。しかし、内証にして「離婚は、隠さなければいけない悪いこと」、そして「自分は悪い親の子ども」と思わせたくなかった。でも子どもたちも、人前で自然に振る舞うことができ、次第に外向的になったのはありがたかった。
それでも学校で心配していたのはいじめだった。「もし母親がいないと言われたら『いないのではなくて一緒に生活してないだけ』と言い返しなさい」と教えた。「日本の歴史の中でも、世界の多くの地域でも、両親がそろった子どもの方が少ないかもしれない」とも話した。
幸いなことに、これまで子どもたちから傷つく言葉を浴びせられたことはなかった、という。
私はむしろ、父子家庭とわかった後に大人が見せる「かわいそう」や「ふびん」の表情の方に、子どもたちが傷ついていたのでは、と思う。どれだけこんな表情に出会わなければならなかっただろうか、と思うと、胸が詰まる。
一人親だから不幸、と決め付けられることは、私にとっても子どもにとってもなにより寂しい。
(一人親家庭サポーター=広島市)