あなたは被爆体験を聞いたことがありますか。1945年8月6日、広島で何が起きたのか−。おじいちゃんやおばあちゃんから聞いたことがある人もいるかもしれません。
今、被爆者の平均年齢は77歳を超えています。体験を直接聞くことができる時間は限られています。そこで、ひろしま国では今回の101号から「あの日」の記憶、そして戦中、戦後の暮らしぶりを、10代の皆さんに伝える取り組みを始めます。ホームページでは動画もアップします。また、体験談を話してくれる被爆者の方と、話を聞きたい10代も募集します。
同時に、原爆や戦争に関する基礎知識を分かりやすく説明するコーナーも始めます。平和な未来を築くために戦争・原爆のことを理解する一助にしてください。
木村 巌(きむら・いわお)さん (79)=広島市安佐南区 | ||||||||||
奪われた 父も幼き妹も 学校行かず仕事の道へ。タクシー内 乗客に語る 13歳で被爆した木村巌さん(79)は、タクシーの運転中、お客さんに体験を語っています。「今の広島の街からは想像できない悲劇があった。その事実を少しでも伝えたい」 「あの日」、木村さんは爆心地から4・3キロの三菱重工業広島造船所(現広島市中区)にいました。労働力不足を補うための動員学徒として働いていました。作業開始の合図を待っている時でした。光と爆風に襲われ、とっさに頭を抱えました。作業場から出るときのこ雲が見えました。「家族は大丈夫か」。爆心地から1キロ余りの広瀬北町(現中区)の自宅へ戻ろうとしたものの、火の熱気で近づけません。造船所へ戻り、防空壕で眠れぬ夜を過ごしました。
父母とは避難先の安佐郡古市町(現安佐南区)の国民学校で数日後に会えました。父に大きなけがはありませんでした。母はやけどや顎の骨折で意識不明でした。当時、きょうだい7人のうち、兄(18)は戦地、2人は疎開で広島県北部にいました。一緒に暮らしていた姉(16)は爆心地近くで行方不明になり、妹(2っ)は自宅近くで亡くなりました。弟(6っ)も天満国民学校(現西区)で被爆。妹(4っ)は上半身を倒壊した自宅に挟まれました。父は必死で助け出そうとしましたが、火が迫っていたため一緒にいた友人に引き離され、助けることができませんでした。「父の気持ちを考えると切ない」。木村さんは父の死後、妹の最期の様子を知らされ、涙が止まりませんでした。 父母との再会に安心したのもつかの間、被爆直後に市中心部で家族の消息を尋ね歩いた父は9月5日、放射線の影響で体に斑点ができて髪が抜け、亡くなりました。木村さんは、学校近くの河原で火葬される父を見送りました。「これからどうやって生きていこう」。その場に立っているだけで精いっぱいでした。今も河原のそばを通ると、亡き父を思い念仏を唱えます。 戦後、木村さんは、意識を取り戻して動けるようになった母やきょうだいと親戚宅などに身を寄せた後、天満町(現西区)に建てた小屋で暮らします。翌年の春、弟の勇次さん(65)が誕生。両手のひらに入るほどの小さな赤ちゃんでした。発達に遅れがあった勇次さんは、後に母の胎内で被爆した原爆小頭症であることが分かりました。 木村さんは母の負担を軽くしようと終戦後は学校には行かず、働き始めます。16歳になると「早く一人前になりたい」と家を出て、大阪でケーキやパイを作る職人になりました。
広島に戻った木村さんは29歳でタクシー運転手になりました。体験を語り始めたのは30代後半。差別を恐れたのに加え、妹を助けられなかった父の気持ちを思うと、長い間話せなかったのです。 しかし、熱心に聴いてくれるお客さんと接し、伝えたい気持ちが次第に強まりました。「原爆のことを話せるようになったのは運転手になったから。天職だと思うし、定めなのかもしれない」と考えます。車内では、勇次さんのことも話します。今はクリーニングの仕事をしていますが、面倒を見てきた母は85年、妹も2007年に亡くなりました。木村さんは、勇次さんの将来を心配しています。 木村さんは原爆への恨みはないと言います。「でも、人類への実験だとしたら、ひどいことだと思うんです」。今の若者には「二度と無謀な戦争をしないよう努力してほしい。しっかり勉強して、平和への思いを強くして」と思いを託します。(増田咲子)
|
「記憶を受け継ぐ」語り手・聞き手募集 「記憶を受け継ぐ」は中国新聞の記者が執筆します。次回から継続して掲載します。また、このコーナーでは、孫世代に被爆体験を語ってくださる人、被爆体験を聞きたい10代を募集します。 希望者は住所、名前、年齢(学年)、電話番号を記入して〒730−8677中国新聞ひろしま国編集部へ郵送するか、kidspj@chugoku-np.co.jpにメールを送ってください。電話082(236)2714。 |