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福島県伊達市の果樹園で、生産者らの話を聞く筆者(左)。原発事故の被害を受けた農家を支援するため、果物を販売した(4月27日) |
くにた・ひろし
1968年愛媛県西条市生まれ。京都大卒業後、朝日新聞社で記者として九州や東京で10年間勤務した。NPOの取材を機に2003年ピースウィンズ・ジャパン入団。国内で活動基盤づくりを担当しながら、新潟県中越地震(04年)、パキスタン地震(05年)、スマトラ島沖地震(09年)などでは現場で支援にあたった。07年の尾道事務所開設に伴い、事務所長として赴任した。愛媛県西条市在住。
街路樹を彩るイルミネーションに、陽気なクリスマス音楽。年の瀬の華やいだ街を歩くと心が浮き立ちます。しかし、原発事故を経験した今年は、背景にあるエネルギー問題や暮らしのありかたに思いを巡らせずにはいられません。
私の妻の実家は福島第1原発の警戒区域内にあります。10月に防護服姿で一時帰宅した妻が見たのは、「死の町」そのものの異様な光景でした。田畑は黄色いセイタカアワダチソウに覆い尽くされ、人気の絶えた町中をダチョウが歩き回っていたそうです。地震でぐちゃぐちゃの実家から持ち出したのは、衣類と少しの写真でした。
義母からは当事者の深い苦悩を聞きます。福島県内の避難先で、見知らぬ人から「金に目がくらんで原発を容認したあんたらのせいだ。帰れ」などと非難され、心を病みそうになった友人のこと。飲食店で偶然会った同じ被災者に「賠償金で人生を楽しまないと損」と言われたこと…。原発事故が、いや、金で地元を縛り続けた原発の存在そのものが人の心をむしばんできた事実に、胸を突かれる思いがします。
これほどの犠牲をなぜ防げなかったのか。記者として九州の原発取材を担当したことがある私も、その責任を免れません。自然の摂理に反した原発技術の本質に疑問を感じつつも、「安全神話」に慣らされ、こんな事故が現実に起きるとは思わずにいたからです。
事故後、私と同じく多くの人が自らを省み、エネルギーを大量消費する社会のありようを見つめ直そうとしたでしょう。しかし、「脱原発」や自然エネルギー推進の熱はいつか冷め、政府や電力会社は再び「神話」を語ろうとしているように見えます。このまま何も変わらなければ、放射性物質を世界中に拡散させた責任から目をそらすことになります。
原発が支えた経済成長により、私たちの生活は便利になりました。それは一つの時代の選択でした。一方、この広島でも農山村や島から人がいなくなり、営々と守り継がれた伝統文化や絆は、美しい田園風景とともに消えかけています。
子や孫の生きていく時代に私たちは何を残せるのか。「原発の時代」のひずみを修正し、新しい価値を選択すべき時ではないでしょうか。フクシマは静かに、でも強く、そう問うていると思います。