|
ヒロシマの母として作詞/「伝えたい」に注目し作曲
こもり・きょうこ 1930年東京都生まれ。詩人会議運営委員長。詩作や文筆活動の傍ら日本子どもを守る会理事、日本平和委員会理事などでも活躍。 |
おおにし・すすむ 1931年三重県生まれ。作曲家・合唱指導者。「にのしま」「夾竹桃(きょうちくとう)の歌」など、平和をテーマにした合唱曲や子どもの歌が多い。 |
「青い空は」は1971年にできました。幼児からお年寄りまで幅広い年齢層に親しまれています。その広がりは平和の歌では前例がないほどです。
誕生のきっかけは、平和団体などから「原爆を許すまじ」(1952年)につぐ新しい歌をつくろう、との呼びかけがあったことです。応募への誘いを受け小森さんは迷います。「原爆は通常の戦争被害と違う。被爆してないと本当のことは分からない」と考えていました。「書きたいけど、被爆者でない自分にその資格があるだろうか」
そんな小森さんを後押ししたのは、海外生活でのある経験でした。
二人を子育て中の61年に、夫の勤務で旧チェコスロバキアのプラハに移住します。31歳でした。翌年6月10日、プラハ郊外のリディツェ村を訪れました。42年、ナチスの弾圧で全滅させられた村です。
そこで、あるおばあさんに出会いました。バスから降りた一行を出迎えた人々の中にいたおばあさんは小森さんと子どもを見るなり「中国人か? 日本人か?」と尋ねます。「日本人」と答えると、いきなり抱きしめて「ヒロシマ! ヒロシマ!」と叫んだのです。
「日本人だからヒロシマ? そうだ、ヒロシマは世界の言葉なんだ」。おばあさんのしわだらけのほおには涙が流れていました。そのことを思い出した小森さんは、「ヒロシマの母」として詩を書こうと決めました。
「青い空は」の1番はあの日のヒロシマ、2番はめぐりくる8・6、3番は世界から戦争をなくそうとの呼びかけです。
曲を付けた大西さんは「青い空は青いままで…」の「伝えたい」という表現に注目しました。「伝えようという言い方とは違って作者自身の強い思いがある」。大西さんはこの部分を、「歌いきり」にしました。文章で言うと「、」ではなく「。」にした、という意味だそうです。
「悲惨(1番)と鎮魂(2番)、未来への確信(3番)。それぞれ違うメロディーが必要なほど詩に訴える力がある。リフレインの『伝えたい』を歌いきりにしたことでやっと曲が動きだした。リズムがあふれてきた」と大西さん。最近は金子みすゞの全詩に曲をつけて発表しています。「海外で公演する場合も、どんな内容の公演でも、必ず『青い空は』は入れるようにしている」と言います。(難波健治)
|
募集 広島の原爆に関するお薦め作品を10代の皆さんから募集します。住所、名前、学校名、学年、年齢、電話番号に、推薦する作品名と作者、推薦の理由を記してください。 |