原爆資料館(広島市中区)には、影のように一部が黒くなった石が展示されている。爆心地から東へ約260メートルの旧住友銀行広島支店(三井住友銀行広島支店、中区紙屋町)入り口にあった石段。「人影の石」と呼ばれる。
「原爆が落とされたときその場にいた人の影だけが残った」「爆心地で直接閃光(せんこう)を浴びた人は、一瞬で蒸発して消えてしまった」―。原爆資料館で展示物の説明をするヒロシマピースボランティアの大林芳典さん(80)によると、時々、修学旅行などで広島を訪れた子どもから、そう信じているという声を聞くそうだ。
「広島・長崎の原爆災害」(1979年)によると爆発直後、約30万度の火の玉ができた。この玉から放射された熱線は爆発から0・2―3秒後まで降り注ぎ、爆心地の地表面の温度は3000度から4000度に達したと推定される。こんな状況だと、人間が蒸発するなんてことが起こるのかな。
人影のように一部が黒くなった石段(1946年末ごろ、松重美人さん撮影) |
広島大名誉教授の大谷美奈子医師(救急・集中治療)に聞くと、きっぱりと否定した。熱線で人体が一瞬で蒸発してしまうことは考えられないという。
「熱線が体のどれほど深くまで到達したかは分からないが、人体は燃えたとしても炭化した組織や、少なくとも骨は残る」と教えてもらった。
また、放射線の影響でも皮膚にやけどのような症状が起こったり、ひどい場合には細胞組織が死んでしまい潰瘍(かいよう)になったりすることもあるが、「蒸発」することはないそうだ。
一方で、「広島原爆戦災誌」(71年)には、「爆心地から半径五〇〇メートル以内の地域は(中略)ほどんど蒸発的即死に近く(後略)」という、似たような表現もある。
子どものころ「『人影の石』の前にいた人は一瞬で蒸発して消えてしまった」と聞いたことがあるという広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)の星正治教授(放射線生物・物理学)はしかし、「人体は炭素原子からできた有機物なので高温でも蒸発することはなく、炭になって残る」と否定する。
やはり「蒸発」はあり得ないようだ。
原爆資料館によると、「人影の石」は「影」の部分以外が熱で白く変色しているそうだ。石段に腰掛けて銀行が開店するのを待っていた人が熱線を遮り、影になった部分だけが黒く残ったと考えられている。
星教授は、仮に体の芯まで完全に炭化した場合、爆風で粉々になり一瞬で消えてしまうことも起こりうるが、「体全体が爆風で吹き飛ばされ、あたかも蒸発して消えてしまったような状況になったというほうが自然」と考えている。
爆心地近くでは、遺骨さえ見つからなかった人がたくさんいた。だからこそ、こんな話が広まったのかもしれないね。(馬上稔子)