原爆を投下した米国が支援したとは、少し不思議な気がするね。原爆資料館や広島市に聞いてみたところ、意外にもいろんな「善意」が寄せられていたんだ。
1947年から48年にかけ、本川小と袋町小、似島学園には、ワシントンのユニテリアン・オールソウルズ教会から文房具が届いた。
本川小卒業生のすし店経営東川源治さん(71)=広島市中区=は「新品のノートや鉛筆がうれしかった」と懐かしがる。
児童は援助へのお礼に、教会に絵や書を送った。その絵を題材に、日米の友情を描いた記録映画を制作している舞台芸術家、重藤静美さん(56)=米国在住=によると、教会は7回にわたりノートやクレヨンなどの文房具のほか、歯ブラシなど計1553キロを日本に送った。日本に対する償いの気持ちがあったようだ。本川小などに届いたのはその一部。牧師が、学校で文房具が不足していることを知り、寄付を募ったそうだ。
米国から届いた鉛筆などの物資を受け取り、喜ぶ本川小児童たち(1947年ごろ、本川小提供) |
このほか、民間団体ではアジア救済連盟(ララ)と対欧送金組合(ケア)の2つが有名だ。被爆地広島は、東京や大阪など大空襲の被害に遭った都市とともに重点支援地域だった。
ララは46年12月から、学校や病院などに食料や医薬品を送った。乳牛やヤギも含まれていた。旧厚生省が52年に発行した「ララ記念誌」の復刻版(96年)によると、ララは、米国の宗教団体や労働団体の計13団体により、46年に結成されている。
ケアは45年11月、ドイツやフランス、オーストリアなどヨーロッパで戦場となった国々を支援するため、米国の22団体が集まってできた。ヨーロッパでの支援が一段落した48年から日本での活動を始めた。やはり食糧や日用品を援助してくれた。
米国からの支援が相次いだことについて、原爆資料館の落葉裕信学芸員は「欧州では多くの国が戦場となり、他国へ支援する余裕がなかった一方で、米国にはそれがあったため」と説明する。
物だけではない。
米国人の森林学者フロイド・シュモー(1895―2001年)は、49年から53年にかけ、家を失った被爆者のために「ヒロシマの家」を計21棟建設した。東京から作業を手伝いに来た前川博さん(77)=東京都大田区=は、「米国の罪を償うために家を建てるというシュモー氏の言葉をはっきりと覚えている」という。
廃虚から復興する過程でも海外からの援助が使われている。
広島市中区の平和大通りに52年に完成した平和大橋と西平和大橋の事業費は1億1000万円。そのうちの9000万円は、米国からの援助物資の価格に見合う額を日本政府が円で積み立てた「対日援助見返資金」だった。
また同年に開館した広島市児童図書館は、建設費526万円のうち400万円がカリフォルニア在住の県人会からの寄付でまかなわれている。
広島の復興に、米国民の償いや、再起を願う気持ちが一役買ったのは間違いない。(村島健輔)
シュモー氏が米国で集めた資金をもとに、南区皆実町と中区江波東と江波二本松、東区牛田東に計21軒を建て、被爆者を住まわせた。木造の日本家屋で、住宅だけでなく、公民館もあった。現在残っているのは、中区江波二本松にある「シュモー会館」だけとなっている。
広島市中区の平和記念公園南東側にある平和大橋は元安川にかかり、長さ83・55メートル、本川にかかる西平和大橋は南西に位置し、長さ101・75メートル。幅はいずれも15メートル。世界的な彫刻家イサム・ノグチが欄干を設計し、平和大橋は日の出、西平和大橋は日の入りをイメージしたとされている。
米国から届いた粉ミルクや小麦などの援助物資に対し、そのドル価格に見合う金額を、日本政府が特別会計に円で積み立てた。国鉄などの国の事業に使ったほか、電力や海運などの民間企業にも融資した。使い道を決めるにはGHQの許可が必要だった。