原子爆弾が投下された1945年は既に国内の都市が空襲を受けるなど、安全な状態ではなかったはず。そんな時期にも海外から留学生がいたのかな。約20年にわたり、当時広島にいた外国人被爆者の調査をしている歴史研究家の森重昭さん(71)=広島市西区=に聞いてみた。
「広島文理科大や広島高等師範学校に通っていた留学生がいました」との答えだった。え、やっぱりいたんだ。
その学校はいずれも現在、広島大になっている。広島大によると当時在籍していたのは、旧満州国を含む中国とモンゴルからの37人(推定)。そして現在のマレーシアなど東南アジアからの9人だ。東南アジアの留学生は、日本に協力的な指導者を育てようと、日本政府が選抜・援助しており「南方特別留学生」と呼ばれていた。
南方特別留学生は8人が被爆し、2人が死亡したことが分かっている。ところが中国とモンゴルからの留学生は、そのうち何人が8月6日に広島にいて被爆したのかはっきりしていない。
「生死の火 広島大学原爆被災誌」(広島大原爆死没者慰霊行事委員会、1975年)には両国合わせて6人の被爆、3人の死亡との記述がある。しかし、広島原爆戦災誌(広島市、71年)は「留学生関係者その他の証言では(中略)12、3人くらいおり、4人ないし6人(満州・モンゴル出身)が被爆死亡した」としており、数字が違うんだ。
原爆で資料が焼失し、担当教授らも被爆死したことなども影響している。元広島大職員の江上芳郎さん(80)は82年から、被爆しながらも生き延びた留学生を調査した結果、中国人留学生のうち12人が被爆、6人が亡くなったとする。
光禅寺で開かれたユソフさんの墓前供養(広島大提供、2003年8月) |
一方で南方特別留学生の数字がはっきりしているのは彼らが興南寮(現中区大手町)という寮で集団生活をしていたためだ。木造2階建てで21室あり、寮母もいた。
元副寮母の娘で44年末から約4カ月間、寮で暮らした北川勝子さん(69)は「みんな明るく、母国の歌を歌ってくれるなど、きょうだいのように遊んだ」と振り返る。
当時は食料不足が深刻化していたが、広島・ブルネイ友好協会会長の花岡正雄さ(58)=中区=は興南寮近くに住み、広島文理科大の研究生だった父の故俊男さんから、たびたび留学生を自宅に招いて食事をふるまっていたと聞いたことがある。母国から離れて暮らす留学生たちにとって、地域の支えは温かいものだっただろう。
亡くなった南方特別留学生のうちの一人、マレーシア出身のニック・ユソフさんの遺骨は佐伯区五日市の光禅寺に眠る。45年前に当時の住職が墓を建てた。毎夏、広島大の関係者や現在の留学生が参列し墓前供養をしている。
供養の世話人、菅野義信・広島大名誉教授(78)は「国を興すという大きな夢を抱き、日本で学んでいた若者が一発の爆弾によりこの地で命を落としたという事実を忘れてはいけない」と話す。(馬上稔子)
「満州事変」を機に、日本が清の皇帝・溥儀を擁立し、1932年に建国した。現在の中国東北地区と内モンゴル自治区北東部にあった。45年、日本の敗戦に伴い、消滅した。