人の命は地球よりも重いって言うよね。大事な質問だ。調べるため、まず広島市中区の原爆資料館に行ってみた。
展示パネルでは、1945年12月末までの原爆による推定(すいてい)死亡者数を「約14万人(誤差±1万人)」と紹介している。つまり13万から15万人の間ということ。2万人もの命がはっきりしないことになる。何でそんなことになるんだろう。不思議(ふしぎ)だよね。
この根拠について、市原爆被害対策部は「76年に、市が国連事務総長(じむそうちょう)に核兵器廃絶(はいぜつ)などの実現を目指すよう要請(ようせい)したときに、専門家を集めて調査研究した結果の数字」と説明する。
原爆で亡くなった人が次々と画面に映し出される国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の遺影コーナー。20日現在、12392人分が公開されている |
最近の高校の教科書を調べてみると、この数字を根拠としたと思われる「原子爆弾による1945(昭和20)年12月までの死者は、広島で約14万人」という記述や、「被爆直後から5年間に、広島では20万人以上(中略)の市民が死亡」など、期間や人数がばらばらだ。時期を特定せずに「およそ12万人の命をうばった」とするものもあった。
「20万人以上」の根拠を探してみると、市が53年に「約20万人」と推計していることが分かった。「原爆被爆者対策事業概要(平成18年版)」にそう記され、説明がしてある。
被爆当時に広島市にいたと推定される人口42万人から、5年後の全国調査で「当時広島市に居住(きょじゅう)していたか」を尋(たず)ね、生存が確認された約15万8000人を引き、そのほかの資料を考慮(こうりょ)した数字だという。
ところが、数年前にさかのぼってこの事業概要を見てみると「約20数万人」になっている。いつの間にか「数万人」が消えたことになる。
キツネにつままれた気分で、53年の中国新聞を取り出してみた。「二十数万名」と、市の発表を伝えている。「広島県史」原爆資料編もこの記事を引用し、数万人多い。
頭がこんがらがるので市の出している数字を、一度整理してみよう。原爆が投下された45年の年末までには13万から15万人が亡くなり、5年後の50年までには20万から20数万人が死亡したということだ。いずれにせよ、なんでこんなに差がでるのか、理解しづらいよね。
そう考えていると、また別の数字が出てきた。
2006年8月6日現在、市の原爆被爆者動態(どうたい)調査事業によれば、45年12月末までに亡くなった人のうち名前が分かっているのは、8万8979人だという。推定死亡者の最少の13万人から引いても、4万人以上の差がある。被爆62年を迎えて、そんなに多くの人が命を失ってなお名前が分かっていないということなのだろうか。
市原爆被害対策部の松村司部長は「約14万人(誤差プラスマイナス1万人)は推計に過ぎない」とした上で、「この数字がどういう経緯で決まったのか、すぐには分からない。詳しく調べてみたい」と話す。ここから先は、次号で紹介するね。
(森岡恭子)1976年に終了した8年にわたる「原爆被災全体像調査(復元調査)」などを受け、2010年度まで市が続けている原爆死没者調査。過去の被爆者調査や各種資料にある被爆者の名前をコンピューターに入力し、重複分を除きながら、1945年12月末までの死没者数をカウントしている。