「卒乳まで」目標 方向転換 勉強会を重ね充実図る
昨年八月、一つの事件が全国のお産の現場に大きな波紋を広げた。神奈川県警による横浜市内の産婦人科病院への家宅捜索だ。容疑は、出産の進行が正常かどうか、子宮口の開き具合を指で確かめる「内診」を看護師に恒常的に行わせていたことだった。
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吉野産婦人科医院が続けている勉強会。吉野院長(右端)と助産師、看護師はもちろん、事務や調理担当のスタッフも参加して情報や意見を交換する |
本来は医師と助産師にしか認められていない内診をめぐる、この問題は、医師と助産師のあつれきを表面化させた。
横浜市内の病院だけではない。多くの病院が内診を、「診療の補助」として看護師に任せてきた。家宅捜索に対して、産科医師たちは「慢性的な助産師不足で、助産師がいない診療所も多い。地域の産科医療が崩壊する」と猛反発した。
一方、助産師たちは、「安全で質の高い助産ケアの提供」という観点から、看護師による内診に異議を唱えた。意見は対立した。
医師と助産師の埋まらない溝。通い合わない気持ち。原因は何だろうか。取材で出会った医師や助産師から何度も同じ言葉を聞いた。「医師は異常出産、助産師は正常出産を専門とする」と。
教育を受ける際、主眼が置かれる点も違う。医師は「異常をいかに発見し、処置するか」、助産師は「正常な経過をいかに促していくか」が重視される、という。こうして生じる「お産観」の違いは、両者の理解を阻む要因にもなり得る。
今、医師も助産師も不足している。溝を深めている場合ではないはずだ。互いに意見や立場の違いを乗り越え、ともに力を尽くす。そんなお産の現場が、中国地方にもある。
島根県斐川町の吉野産婦人科医院のナースステーション。午前と午後の外来の合間の昼下がり。医師や助産師、看護師らが、立ったまま輪になって、母乳ケアなどの専門書を、代わる代わる朗読する。
「うちではどうなってる?」「こうした方がいいよね」。同医院で実施しているケアと照らし合わせながら意見交換する。打ち解けた雰囲気の中、時折、笑い声も聞かれる。週二回の勉強会は、情報共有や意思疎通のため、三年前から続けている。
「分娩(ぶんべん)が無事に終わったら、産科医師の役割は終わり。そう思っていました」。吉野和男院長(51)は、一九九四年に開業したころを振り返る。「でも、分娩は途中経過。育児につながるケアが必要。それには、チームワークがどうしても必要だった」と実感を込める。
吉野院長にチームワークの強化を迫ったのは、母乳育児を支援する試みだった。「無事な分娩」を目標にしていたころは、産後のケアはスタッフ任せで、詳細は把握していなかった。しかし、「卒乳まで見据えた母乳育児」を目標に切り替えると、見えてくる世界が変わった。
出産後すぐに始まる子育てが生々しく伝わってきた。母親たちの戸惑いや不安。児童虐待さえ、特別な出来事ではないと感じるようになった。自分だけでは到底、無理だった。助産師をはじめスタッフとともに、ケアの方向を転換させた。
同医院は二〇〇五年、世界保健機関(WHO)と国連児童基金(ユニセフ)に、母乳育児を徹底的に支える「赤ちゃんにやさしい病院(BFH)」として認定された。吉野院長は、こうも言う。「BFHの認定を目指していなかったら、産後の母親への理解を深めることができただろうか」
内診問題にまつわる横浜市内の産婦人科病院の事件が決着したのは、今年二月。横浜地検は「産婦人科医療の構造的な問題で、刑罰を科すのはふさわしくない」として、元院長らを起訴猶予とした。しかし、医師と助産師とのあつれきのしこりは消えたのだろうか。
「ママになる」立場からすれば―。お産は、正常に経過することもあれば、異常が生じる場合もある。そして、子どもを産んだ直後から、育児がいや応なしに始まる。医師と助産師が手をつなぎ、支えてくれたら、どんなに安心だろうか。=おわり
第3部は平井敦子と上杉智己が担当しました。
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