中国新聞


中学受験 12歳、成長への通過儀礼
角谷勝己(鯉城学院院長)


 年明け早々、中学入試が開幕。とはいえ、この時期は前哨戦で、本命前の腕試しというケースが多い。ひとまず受験を体験し、実戦の勘を養おうというのだが、その割には前日から顔が引きつっている。

 日ごろ、大人相手にどれだけ生意気な口をきこうとも、しょせんは十二歳の子どもである。長い年月をかけて勉強してきた(全力投球したかどうかはおいといて)結果が問われる審判の場を前にして、心穏やかに、とはなかなかいかない。

 なにしろ初体験である。あれやこれや親や塾の先生に忠告されても経験値がないため「実感」としてつかめない。ただ、「なんか、ヤバイ」という漠然とした危機感や焦燥感が日を追うごとに大きくなっていく。

 これが二、三カ月前なら、「ま、いっか」で逃げていた連中が、この時期にはもがき、あがく。体調が悪くても休まない。休憩時間も問題を解き、先生をつかまえてしつこく質問する。解けない問題を前につめをかんで、ひざをゆする。時には出来の悪さに涙する。まさに寸陰を惜しみ、必死で戦う受験生の姿がそこにある。

 こんな子どもたちをかわいそうと思う人もいるかもしれないが、僕はそんな子どもたちと出会うためにこの仕事をしていると言っても過言ではない。彼らの姿に成長のひとつの形を見るからだ。

 痛みや苦しみを経験しなければ人は強くなれない。だが、現代は「純粋培養」され困難を経験しないまま大人になっていく子どもが増えている。受験は現代に残された数少ない通過儀礼のひとつではないか。受験を通して子どもたちは大きく成長していく。その成長は、受験=悪という図式だけにとらわれている人間には見えないものなのだろうと思う。

 願わくば、努力と等価の結果を全員に与えてやりたいが、現実は必ずしもそうならない。いくら経験を積んでもこの非情さだけには慣れることはできない。

 すべての受験生が悔いを残さず全力を尽くしてくれることを願ってやまない。

(2009.1.19)

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