【社説】 授業時間の増加で、一人一人の個性を伸ばせる教育が実現できるのだろうか。二〇一一年度から実施される学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会(中教審)の教育課程部会がおととい、「まとめ」を了承した。 一九七七年の改定以来、授業時間や学習量を減らし続けてきた学校教育。事実上の答申案となる今回のまとめは、「ゆとり教育」の全面的な見直しへと、大きくかじを切る形になる。 小学校では主要五教科の時間数を全体で約一割増やす。中学校も理科や英語を三割増やすなど必修教科の時間数を多くする。ゆとり教育の目玉だった総合学習の時間が、小中ともに大幅に削減されるのと対照的だ。 もともと、ゆとり教育は「詰め込み」の反省から生まれた。基本理念は、子どもたちが自ら学び、考え、問題解決できる「生きる力」をはぐくむことだった。学校の週五日制も延長上にある。 今回のまとめは、その理念を実現する手だてが「必ずしも十分でなかった」とし、反省点も盛り込んだ。学校や保護者との間に十分な共通理解がなかった▽各教科と総合学習の適切な役割分担と連携が十分図れなかった―などとしている。相次ぐ批判に押される形だったとしても、自ら検証したことは評価できよう。 その上で「知識・技能を習得し、思考力・判断力を育成するため、授業時間数を増やす」との考え方を打ち出した。しかし、授業時間が多くなることが、生きる力を育てることにどうつながるのか、いまひとつ見えてこない。 文部科学省が公表した全国学力テストの結果をみる限り、基礎知識の理解度や学習意欲の点では全体的によかった。「学力低下批判は的外れだった」との指摘もうなずける。 授業増の方針自体は、先に安倍晋三前首相の肝いりで発足した教育再生会議が打ち出している。それを単に踏襲しただけでないのなら、国民が納得できる根拠を示してもらいたい。 この先懸念されるのは、方針転換による教育現場の混乱である。今世紀に入って、小中の指導要領は一部手直しも含めると、三回も変わることになる。 時の政権の意向で振り回されるようでは「国家百年の大計」もあったものではない。現場や保護者の声を踏まえた議論を尽くすべきだ。性急に過ぎてはなるまい。 (2007.11.1)
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