【社説】 福岡県筑前町の中二男子いじめ自殺事件で、信じられないようなことが明らかになっている。 教師側はこう釈明した。「死にたい、と笑いながら友達に言っていたという。まさか本気だったとは」。何という鈍感さ。 笑うというのは、追い詰められた者の最後の意地であり、プライドではないか。同時に「何とか察して」とのサインではないか。過去のいじめ事件の蓄積で得られた悲しい知見が、ここには届いていないのだろうか。 さらに信じられないのは、いじめを誘発したのが教師の言動だったことである。 その子の親から相談されたプライバシーを、ほかの子にばらす。教室で落ちた級友の消しゴムを拾ったら「偽善者にもなれない偽善者」とおちょくる。教師の「公認」で子どもたちのいじめがエスカレートしたとみられる。 遺族宅で何度も「なぜ」と詰め寄られた教師は、蚊の鳴くような声で「からかいやすかったから」と答えた。冗談ではない。 対等の関係なら「からかい」もコミュニケーションの一種だろうが、一年生一学期といえば教師は生徒に対し圧倒的な高みにある。強者のからかいは暴力に等しい。そこに思い至らなかったのか。 これを「教師の特異なキャラクター」に帰して済ますわけにはいかない。現場での危うい話が広島市でも耳に入るからである。 ある教育関係者は、教師が生徒に対し「バカじゃない」「親の顔が見たい」「もう知らん」などの言葉をよく使っている、という。ある中学では「このままでは卒業できん、社会でも通用せん」と言われ続けて、円形脱毛症になった生徒もいたという。 先生はまず「人格を否定する言葉は暴力」という基本認識を胸にたたき込んでほしい。同時に、それに反している教師に対して「いけない」と言える校内体制をつくってほしい。 現場で聞くと、生徒は信頼のできる教師やスクールカウンセラーに対して「実はあの先生が…」とけっこう話している。訴える力はあるのだ。全校アンケートをしても情報は集まるだろう。 訴えに耳を傾け、それを学校全体で受け止め、当事者を含めて率直に意見を出し合う。そうした場が日常的にできていれば、その姿勢が生徒にも伝わるはずだ。訴えを握りつぶすことだけはしてはいけない。 (2006.10.18)
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