【社説】 教育の再生を目指す専門家が英知を集めれば、特効薬が生まれるのではないか。そんな期待をしがちだ。しかし現実にはそうした特効薬はあり得ない―というクールな認識からスタートしたい。 「教育再生会議」の新設が決まった。安倍晋三首相に直属する諮問機関である。ノーベル賞学者である野依良治氏を座長に、トヨタ自動車会長の張富士夫氏、「ヤンキー先生」として知られる義家弘介氏、居酒屋チェーンを展開する渡辺美樹氏ら十七人だ。 教育基本法の改正を掲げる首相と、国会で性教育バッシングをした山谷えり子首相補佐官による人選だから、超タカ派の集まりかと懸念した。ふたを開けてみると意外にもバランス感がある。 ただあまりに多方面からの寄せ集めだ。論議がかみ合うのだろうか。現場の人も少なすぎる。「大所高所」から子どもたちの心の機微が分かるだろうか。 疑問はまだある。首相は、公教育で「高い学力」と「規範意識」を保証したいと述べ、再生会議をそのエンジン役と位置付けた。ところが初会合の前から(1)教員免許の更新制(2)外部による学校評価(3)基礎学力強化プログラム―などの具体論に言及している。諮問といいながら結論がちらついている。 もう一つ。確かに、学力低下と規範意識の緩みは多くの人が実感する。何とかしなければと思う。ただ気になるのは、それが一方的に「しつけのできない親」と「指導力不足の教師」のせいにされているように見えることだ。 「下流社会」でもがいたり、成果主義で疲れ果てたりして、子どもを受け止める余裕のない親がいる。満たされなさから攻撃に転じたり、消費社会の快楽に走る子がいる。そして校内事務に忙殺されて社会と子どもの変化に対応できない教師…。問われるべきはそうした人々を生む「構造」であり、会議はそこに切り込めるのか。 もちろん見識ある人の集まりである。分野が違うからこそ討議の中で思わぬアイデアやヒントが出ることは期待できる。それは大切にして、報告書を読めば誰でも使えるような共有物にしたい。 「これまで上からおりてくるものでいいものはなかった。今回も空々しい」と教育委員会でぼやきを聞いた。本音だろう。現場を振り回すことなしに「これなら採り入れたい」と思わせる内容をどれだけ報告書に盛り込めるか。そこに会議の存在意義を求めたい。 (2006.10.13)
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